ずまログ

日常/非日常の印象を徒然なるままに綴ります

短編39:今は亡き王女のための

僕がまだ若い頃、大学の知人でこんな人がいた。といっても冒頭がそう感じた訳ではなく、僕の友人がその知人を評してそのような見解を述べていたのだ。あいつはまるでこの王女のようだ、と。

「僕」が王女と過ごしたあの夜について読んでいると、読み手である僕も大学生の頃の空気や匂いをもう一度嗅ぐことができる。それが読書の素晴らしい点だ。

この王女は、『ノルウェイの森』のレイコさんのピアノ生徒だった女の子を思い出させる。

 

短編37:タクシーに乗った男

冒頭はインタビューを生業とする聞き手がインタビューに臨む際の姿勢について持論を語り、絵画において大切なことは対象の核となる部分を抑えることだという著者のいわば創作姿勢について語っている様でもあるる。

その後、ある印象的な画廊オウナーの女性の話になり、女性の心の核心となっている凡庸な絵画の話になり、人生を焼き捨てようとする話になり、絵に登場する男と現実に出会う話になり、最後に教訓を得るという構成である。

教訓は、「人は何かを消し去ることはできない。消え去るのを待つしか無い」ということ。このことは冒頭から読んでくるとストンと府に落ちる。人は体験からしか学ぶことは出来ないのだ。でも僕らは読書を通じて体験的に学ぶことができる。もちろん、うまくいけばということだけれど。

短編33:プールサイド

『駄目になった王国』と共通するプールサイドの場面ではあるが、本作の方が遥かに立体的な構成になっている。なぜだろう。それは、前作では話し手と聞き手が久しぶりに会う友人(但し相手は気づいていない)といういわば並列関係だったのに対し、本作では会ってから僅か2ヶ月の水泳仲間に過ぎず話し手である「彼」が前景に出て聞き手である「僕」が一歩引いていることにより、場面に立体感が出ている。プールの水は非現実的な程に透き通っており、水には中年の男と二人の女が浮かんでいて監視員である男が退屈そうに眺めている。これが「彼」と彼の「妻」、彼の「若い恋人」、そして「僕」の立ち位置を象徴的に表している。

最後部で僕は、彼の語りを移し替えたこの文章を、「彼」が読んだらどう思うだろうという問い掛けで終えている。それを読んだ読み手は、「では自分が「彼」だったとしたらどうかんじるだろう」と問い直さざるを得なくなるように思う。

読んでいる最中は、「彼」と「僕」の対話の傍観者だった読み手が、最後部で自然と「彼」の視点に立って考えることになるという視点の転換の効果が遺憾なく発揮された作品である。

 

ちなみに、僕も若い頃は35歳を人生の分水嶺だと考えて生きてきた。村上作品の影響は多分にあると思われるが。実際に自分が分水嶺を越えてから10年の歳月が経つ。妙なものだ。

短編32:とんがり焼きの盛衰

とんがり焼きは小説のメタファーとして読める。「新作募集大説明会」は小説雑誌に応募して新人賞などを選考する会だとすると、「皮の部分がもったりして」「今の若い人間がこんなの好」むとは思えないというくだりは痛烈な批判の雰囲気をまとう。それでいて、受付の彼女から蹴飛ばされ囁かれるやりとりは日本の小集団におけるある種の閉鎖性をコミカルに描き出していて読んでいてとても楽しい。結びの「鴉なんてお互いに突きあって死ねばいいんだ」なんて痛快ですらある。

短編28:チーズケーキのような形をした僕の貧乏

土地の形についての説明がとても上手だ。その土地をみたことがなくても想像できる。

それにしても「三角地帯」という言葉には意味深なものがある。どこかの紛争地域のことを指しているのかなと思わなくも無い。